人を好きになるということ。それはたぶん、その人に関心を持つことなのだと思います。
自分にとって都合がいいかどうかではなく、その人がどんな景色を見て、どんな言葉を持ち、どんな輪郭で生きているのかを知りたくなること。愛するということも、そういう関心や敬意の延長にあるのかもしれません。
けれども、世の中には「人を好きになることがない」「人の愛し方がわからない」と語る人がいます。
その言葉は、その人にとっては本当の実感なのだと思います。ただ私は、その自己分析の言葉を聞くたびに、少しだけ引っかかることがあります。
問題は「愛せないこと」そのものではなく、その手前にあるのではないか、と。
今回の投稿は、「人を好きになれない」という言葉を否定するのではなく、その言葉が指しているものの「もう一段手前にある構造」を考えてみたいと思います。「愛の欠如」の話というより、「他者への関心や敬意の回路」の話として。
目次
その「人を好きになれない」は結果の言葉かも
「人を好きになれない」「愛し方がわからない」
そうした言葉は、その人の中で起きていることを、かなり正直に言い当てているのだと思います。
誰かに心が動かない。
好きと言われても信じられない。
愛情らしきものが、自分の中に育っている感覚がない。
その実感に嘘はないのでしょう。ただ、その言葉は、起きていることの「結果」は語っていても、その結果が生まれる「原因」までは言い当てていないことがあります。
自分のことを振り返るとき、人はどうしても、いま表に出ている感情や状態から先に言葉を選びます。
「悲しい」「苦しい」「信じられない」「好きになれない」
でも、その言葉のもう少し手前に、別の層があるのだと思います。感情そのものというより、その感情が生まれる前提。「何が自分の中で欠け、何がうまく立ち上がっていないのか」という層です。
だから「人を好きになれない」という自己分析は、間違っているというより、少し手前が抜けているのかもしれません。結果としてはそうなのだとしても、その手前にもっと別の接続不全があるのではないか。私はそんなふうに考えることがあります。
人を好きになる前に必要なものは何か
では、人を好きになるには、何が必要なのでしょうか。
感情と言ってしまえばそれまでです。でも、感情が動く前に、もう少し静かな前提があるように思います。
たとえば、その人に関心を持つこと。その人が何を考えているのか、何を見ているのか、どういう痛みや願いを持っているのかを、少し知りたくなること。
たとえば、その人に驚けること。自分とは違う景色を見ていること、自分にはない輪郭を持っていること、その固有性にふと足を止めること。
たとえば、その人を敬意を持って見ること。自分にとって都合のいい存在としてではなく、自分とは別の世界を持つ、ひとりの主体として扱うこと。
人を好きになるというのは、たぶんこうしたものの延長線上に生まれるものではないでしょうか。
愛するということもまた、いきなり空から降ってくる感情ではなく、他者への関心、驚き、敬意が、時間をかけて深まっていった結果なのかもしれません。
そう考えると、愛情の問題に見えるものが、実はそのもっと手前の「他者を他者として見る回路」の問題であることもありそうです。
他者が「相手」ではなく「機能」になるとき
人は、自分の内側が苦しいときほど、他者を落ち着いて見ることが難しくなります。
この人は、自分を傷つけるだろうか。
この人は、自分を支えてくれるだろうか。
この人は、自分を理解してくれるだろうか。
この人は、自分をどう見るだろうか。
こうした問いで他者を見ているとき、相手はまだ十分に「自分とは別の主体」として立ち上がっていません。そこにいるのは、自分に何かをする存在、自分に何かを与える存在、自分に何かを返す存在としての他者です。
もちろん、人間関係にはそうした側面もあります。私たちは誰でも、関係の中で影響を受け合っています。だから、相手が自分に何をもたらすかを考えること自体は不自然ではありません。
でも、それだけになると、他者は少しずつ「機能」になっていきます。
私を安心させてくれる人。
私を傷つける人。
私を理解してくれる人。
私を受け止めてくれない人。
そこでは、相手がどんな輪郭で生きているのか、どんな世界を見ているのか、どんな矛盾や複雑さを抱えているのかは、あまり立ち上がってきません。相手のことが「自分にとってどういう存在か」という形でしか現れないからです。
私を語る物語の中に強く住み続けている間は、他者そのものへの関心や敬意は育ちにくいのかもしれません。
すると、愛情の前段階で止まりやすくなります。関心も、驚きも、敬意も育ちにくい。愛せないという前に、相手が相手として十分に見えていない。そういうことは、たしかにあるのだと思います。
愛せないのは冷酷さではなく防衛の現れ
ここで大切なのは、「人を愛せない」ことを冷酷さや傲慢さとして切らないことです。他者を他者として見るには、ある程度の安全性が欠かせないからです。
人は自分の足場がぐらついているとき、まず自分を守ることで精一杯になります。相手の輪郭に驚く余裕より先に、自分がこれ以上傷つかないための手当てが必要になる。深く傷ついた経験のある人ほど、その傾向が強いのかもしれません。
相手に評価されること。
拒まれること。
誤解されること。
見捨てられること。
そうしたことへの恐れが強ければ強いほど、他者を落ち着いて眺める前に、まず「この人は安全かどうか」が先に立ちます。
そうすると相手を主体として見るよりも、「自分を脅かすのではないか」「自分を守ってくれるか」「自分を支えてくれるか」「自分を見捨てはしないか」という機能で見てしまう。それは悪意というより、かなり切実な防衛のように思えます。
だから、「人を好きになれない」「愛し方がわからない」という言葉の背後には、愛情の欠如というより「生き延びるために視野が狭くなっている状態」があるのかもしれません。
他者に心が向かないのではなく、向けるだけの安全がまだ足りていない。そんなこともあるのでしょう。
毒親は遠い原因にはなりうるが、すべてではない
こういうとき、背景としてよく語られるのが、家庭環境です。
機能不全な家庭。親への不信。安心の欠如。そうしたものはたしかに、他者への信頼や自然な関心の育ち方に影を落とすのだと思います。
自分を守ることが先になりやすい。相手を安心して眺めるより、まず相手が危険かどうかを見やすくなる。そうした回路は、たしかにそこで作られやすいのでしょう。
だから、遠い原因として、それは十分ありうると思います。
ただ、そこで話を止めてしまうと、現在の運用が見えなくなることがあります。背景は大事です。ただし、その背景だけでいま起きていることのすべては説明しきれません。
幼い頃にどういう世界で生きてきたかは、その人の初期設定に深く関わることです。でも、大人になってから、どの設定をそのまま動かし続け、どの設定を少しずつ見直していくのかは、また別の話です。
背景の説明は必要です。でも、背景だけで現在を包み切ってしまうと、いま何が起きているのか、何がまだ育っていないのか、何を見直す余地があるのかが、かえって見えにくくなる。そのことは、覚えておきたいと思います。
愛を知る前に、他者を他者として見ること
もし問題が、愛情そのものの欠如ではなく、その手前にあるのだとしたら。必要なのは、「愛し方」を直接学ぶことではないのかもしれません。
愛し方の前に、「他者を他者として見る」こと。自分にどう作用するかではなく、「その人がその人として、どんな世界を持っているのか」に関心を持つこと。自分に何をしてくれるかではなく、「その人そのものに少し驚いてみる」こと。
愛は、そこからしかはじまらないような気がします。
誰かに優しくする方法を知っていること。
恋愛のルールを知っていること。
愛情表現のパターンを学ぶこと。
そうしたことも無意味ではないのでしょう。でも、相手がまだ十分に「相手」として立ち上がっていないなら、それらは表層の技術に留まりやすい。愛の技術の前に、他者性への接続がいる。その順番なのだと思います。
だから「人を好きになれない」という言葉を聞いたとき、私は少し考えてしまうのです。本当に起きているのは、愛の欠如なのだろうか。それとも、その手前の「他者へ心を向ける回路」がまだ十分に育っていないだけなのだろうか、と。
「人を好きになれない」という言葉は、その人にとって本物の実感なのだと思います。だから、それを簡単に否定するつもりはありません。
ただ、その言葉だけでは少し足りないのかもしれない、と私は思います。
愛せないのではなく、その前に、他者がまだ十分に「相手」として立ち上がっていない。もしそうだとしたら、必要なのは愛を語ることより先に、「自分の外にある他者の輪郭」に少しずつ驚き直していくことなのかもしれません。
相手が自分をどうするか、ではなく。相手がどんな世界を持っているのかへ、少しだけ目を向けてみること。愛は、たぶんそこからしかはじまらないのだと思います。











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