「誰も信じない方が安全だ」と、頭が結論を急ぐ夜があります。
「期待しなければ傷つかない」と、心が先回りして最悪の結末を確定させてしまう。
自分自身を冷たく突き放すようなこれらの言葉を、まるで事実の確認作業のように何度も反芻してしまう人がいます。
健やかな心境にいる他者は、その姿を見て「悲しいことを言うのはやめよう」「過去の傷はひとまず置いておいて、目の前の好奇心を楽しめばいいのに」と、無邪気な正論を口にするかもしれません。
しかし、そうした思考を繰り返す本人にとって、それは決して単なる愚痴や感傷などではありません。
「ひとまず置いておく」ことなど絶対にできない、死活問題とも言える切実で構造的な理由が、その内側には存在しているのです。
未知への恐怖と「命綱」としての絶望
人が何かに好奇心を抱き、他者を信じて無邪気に一歩を踏み出せるのは、心の底で「もし失敗しても、裏切られて傷ついても、帰る場所(安全地帯)がある」と信じ込めているからです。
しかし、かつて最も無防備だった瞬間にその安全地帯を理不尽に奪われ、深く傷つけられた経験を持つ人にとって、「好奇心」や「他者への期待」は命綱なしで断崖絶壁を歩くような極限の恐怖(リスク)を伴います。
「もしかしたら、この人は信じられるかもしれない」と期待して踏み出し、それが再び裏切られたときの絶望は、今度こそ完全に心を破壊してしまう致命傷になりかねません。
だからこそ、傷ついた人の内側では、思考が「最悪を確定させる装置」として強力に働きはじめます。
心が破壊されるリスクを極限までゼロにするための最も合理的な方法は、最初から「最悪の結末」を確定事項として自分にすり込んでおくことです。
「誰も信じない」「受け取れない」といった結論は、自分を貶める呪いのように見えて、実は絶望の底へ落ちないように自分を繋ぎ止めておく強固な「命綱(アンカー)」として機能しているのです。
言葉が「鎖」を鍛え上げる逆説
絶望の底へ落ちないように「世界はこういう予測できない場所である」と定義し、その思考を繰り返すたび、命綱はより太く重い「鎖」へと鍛え上げられていきます。
思考が深く、論理的であればあるほど、その鎖(防衛線)は一切の隙を持たない完璧なものへと仕上がっていきます。
確かに、その太い鎖は、他者からの裏切りや予期せぬ致命傷から、その人を完璧に守ってくれるでしょう。しかし、ここで残酷な逆説(パラドックス)が生まれます。
鎖を重く分厚く鍛えれば鍛えるほど、他者が境界線の外側から差し伸べようとした温かい手や、自身の内側に芽生えかけた純粋な好奇心さえも、その鎖の重さに阻まれて届かなくなってしまうのです。
自分を守るために全力を尽くしたはずの防衛機能が、結果的に自分自身を息苦しい場所に閉じ込めてしまう。それは、あまりにも痛ましく、息の詰まるような構造的な行き止まりです。
鎖の重さを、粗雑に否定しないということ
だから、その鎖を今すぐ断ち切ろうだなんて、無責任な正論を口にするつもりはありません。
心が完全に壊れてしまわないよう、どれほどの恐怖と戦いながら、その重い鎖をたった一人で鍛え上げてきたのか。その途方もない労力と痛みを思えば、「過去は忘れて、手放せば楽になるよ」などとアドバイスすることは、あまりにも無邪気な暴力でしかありません。
「誰も信じない」という結論は、理不尽な世界から致命傷を負わずに生き延びるための、悲しくも極めて合理的な生存戦略だったはずだからです。
ここに、鎖を一瞬で溶かしてあげられるような魔法はありません。分かりやすい劇的な救いも用意できません。
ただ、日々引きずり、心を縛り付けているその鎖が、どれほど重く、どれほど冷たいものか。その防衛のメカニズムを、ただの未熟さや直すべき欠陥として粗雑に否定しない言葉だけを、ここに置いておきます。
今はまだ、その鎖は解かなくて構いません。無理に前を向いて歩き出さなくてもいい。
答えの出ない葛藤の中でじっと息を潜めているその沈黙の時間を、決して急かさない場所でありたいと思います。












そっと言葉を置く