私はよく「お人よし」と言われます。足元を掬われるような裏切りに遭っても、あまり気にすることなく人を信じ続けるからだそうです。
「なぜ、そんなに傷つかずにいられるのか」
「なぜ、懲りずに人を信じることを続けるのか」
不思議に思われても当然だと思います。
もちろん、まったく傷つかないわけではありません。ただ、その傷が私の機体を墜落させる「致命傷」にならないように、操縦桿を自分の手に戻しているだけです。
無傷でいようとするほど、心はかえって不自由になることがあります。
結論から言えば、私にとって「人を信じる」ことは、相手に何かを期待することではなく、私が私自身の人生の「操縦桿」を握り続けるための自律的な行為です。
今日は、私が人を信じ続けていられる理由と、裏切られても致命傷にならない理由、そして私が大切にしている信条について、少しお話ししようと思います。
期待という「委ね」を捨てる
私たちは、しばしば「信じる」という言葉を「相手への期待」と混同してしまいます。
相手が自分の望む通りに動くことを祈り、その結果に自分の心の安寧を委ねてしまう。それは、自分の人生という飛行機の操縦桿を、助手席の誰かに丸投げしてしまっている状態に似ています。
だから相手が舵を切り間違えると、こちらも墜落して再起不能な傷を負ってしまうのです。裏切られて傷つくのは、相手の不誠実さのせいだけではありません。自分の操縦桿を、相手に握らせてしまっていたからです。
私は、その操縦桿を誰にも渡すことがありません。
私は以前、空母のような存在でありたいと話したことがあります。ただ、空母が荒波の中でも進路を乱さず、相手の帰還を支え続けるためには、私自身が自分の「操縦桿」を片時も離さない自律した航海士である必要があります。
全財産を奪われても失わないもの
実を言えば、私がこのように考えるようになったのには理由があります。
私は30代前半に、当時の結婚相手との離婚を経験しました。恩師の死という、私にとって最も重い想いを踏み躙られたことがきっかけでした。
別れが決まった直後、彼女は私が預けていた通帳から、マンション購入用の貯金も、生活費も、振り込まれたばかりの給料も、1円残らず引き出して家を出ていきました。
戻ってきたのは、残高が0になった通帳だけ。謝罪の言葉はなく、返してほしいと言うなら裁判をすると喚かれました。こちらの言葉が届く状態ではないと悟り、淡々と状況を受け止めていたことが思い出されます。
この経緯を知る古くからの友人は、皆こう言います。
「よくそんな経験をして、今も人を信じられるね」と。
操縦桿メソッドの要点
- 期待(相手の行動)を握らず、自分の行動を握る
- 信頼は宣言、防衛は仕組みでやる(お金・境界線・距離)
- 何かが起きたら「相手が悪い」と思う前に、操縦桿を自分に戻す
人間の弱さを計算に入れる
友人の言うことはもっともだと思います。しかし、私はこの経験を経て、こう考えるようになりました。
人は、完璧な生き物ではありません。
窮地に立たされれば、自分を守るために誰かを裏切る選択をしてしまうことがある。それが人間という生き物の「仕様」であり、脆弱さです。
その不完全さをあらかじめ計算に入れておくことは、冷徹さではなく、深い慈悲に繋がると私は考えています。
裏切りが起きないように「仕組み」で自分を守る。それは、相手に「悪役」を演じさせないための最大級の配慮でもあります。守るべきところを仕組みで守っているからこそ、心はどこまでも無防備に、しなやかに相手を信じることができるのです。
もしも相手が私を裏切らざるを得ない状況になったとしても、それは相手の弱さや事情があってのことであり、それも私の選択の一部です。
だから、致命傷にはなりません。感情は揺れても、操縦桿は手放さないからです。
自律としての「信頼」
私にとっての信頼は、究極に「能動的」なものです。
それは、相手に何かを要求することではなく、「私は、この人を信じると決めた」という、私自身の操縦席で行われる孤独な意思決定です。
操縦桿をしっかりと握りしめたまま、隣を飛ぶ機体を見つめる。
相手がどこへ向かおうと、あるいは予期せぬトラブルで急降下しようと、私の機体が墜落することはありません。なぜなら、私は「私の意志」で、今この瞬間の相手を信じているからです。
そう決めているからこそ、たとえ期待と違う結果が返ってきても「ああ、残念だな」と思うだけで済みます。そこに「裏切り」があったとしても、「私の存在価値」や「私の選択の正当性」は1ミリも揺らがないからです。
自己肯定の連鎖
操縦桿を握り続けて信じることは、自分の中に静かな、しかし強靭な自己肯定感を生み出します。
- 信じると決めた、自分の意志を誇ること。
- 相手の変化を、期待というフィルターを通さずに受け取れる自分を慈しむこと。
- 期待という押し付けではなく、相手を思いやれる自分を認めること。
- 裏切られても、それを受け流し、それでもなお人を信じることをやめない自分を信頼すること。
この自己肯定は、誰かに与えられるものではありません。自分の操縦桿を握り、自律して進み続けている者にしか得られない「自家発電の光」です。
心の隣人として
信じることは、相手を縛るための鎖ではなく、自分が自由であるための「儀式」です。
私は、私の操縦席で、今日も操縦桿を握っています。
私が自律した航海士であり続ける限り、この「空母」という場所が揺らぐことはありません。
私に正しく応える必要はない。私を失望させることを恐れる必要はない。私の信頼は、相手の反応に依存するような脆いものではないからです。
この投稿を読んでいるあなたにも、いつか自分のための操縦桿をその手で握ってほしいと願っています。誰の期待も、誰の視線も気にせず、あなたがあなたであるために自由に大空を飛び回れるように。
そのとき、隣で飛んでいる機体、あるいは帰る場所として控えている存在が、少しでもあなたの安心に繋がれば幸いです。ただそれだけで、自分の選択を心から肯定できるのです。











そっと言葉を置く